CONTINENTAL CUP SKI JUMPING
ハッピ、扇の額など、いろいろおみやげをもらえるコンチネンタルカップ。プレゼントされたその場で、嬉しそうに包みを開ける選手たち。
ハッピを着て、ネクタイをし、額を持って記念撮影と相成った。
1998 || 1999 || 2000 || 2001 || 2002 || 2003 || 2004|| 2005
1998 || 1999 ||
札幌のコンチネンタルカップは、毎年、1月中旬、宮の森(K90)で1試合、大倉山(K120)で2試合行われる。宮の森は札幌オリンピック記念大会(何年か前まではTV放映もありました)、大倉はそれぞれ、HTB杯(テレ朝系)、STV杯(日テレ系)を兼ねている。

参加外国人選手はWCと違って少人数で、3試合、滞在期間も6泊7日とWCよりも長い。選手にはスポンサーからハッピや扇の額、ネクタイなどいろいろおみやげがある。初来日の選手、コーチにはうれしいかもしれない。上は99年の写真。このときは、全員がその場でプレゼントの包みを開け、ハッピを着て、ネクタイを締め、扇の額を手に持ち、記念写真と相成った。中にはこんなプレゼントでは歓ばない選手、コーチ、役員もいるが...。

成人の日がまだ1月15日にフィックスされていたころは、20歳を迎える選手には、外国人選手にもプレゼントがあった。もっとも欧州では20歳で成人ではない国もある(ドイツ:18歳、オーストリア:19歳、スイス:20歳。ごめんなさい、他の国は知らないです)。

翌週にWCが行われれば、そのまま残ってWCも飛ぶ選手も多い。やはり、場合によっては近寄りがたさを放っているWCクラスの選手より親しみやすい感じがするし、試合としてもまったり。

札幌でコンチがある1月の第2週末、ヨーロッパのどこかでもコンチが開催されている。だからコンチの総合トップ争いをしている選手は札幌のコンチへ来ることはあまりない。亜流なのだ。WCと同じく日本へ来るには体力的にリスクがある。時差もなく試合会場へも近いヨーロッパで戦っている方が基本的には楽なのだろう。でも考えようによっては、トップがいない試合は勝ちやすい。同じコンチだから、勝ちは勝ち、100点入る。

トップが来ることが少ないという札幌のコンチの性質上、ここで会った選手が以降のシーズンでAチーム入りを果たし、改めてWCで札幌にやってくる、ということは多くはない。

1998年:初めてコンチに関わった年。わけもわからず学びながらのお手伝いだったが、ジャンプの綺麗さに圧倒され、虜になるきっかけとなった記念すべき(?)大会。

参加選手はミヒャエル・クリ(AUT)、パシ・フットネン(FIN)、クラウス・アルガイヤー(GER)、アルヴェ・ヴォルヴィック(NOR)、ダミアン・フラス(SLO)。
長野オリンピックの年。このクラスでもまだまだ日本が強かったころだ。AUTのクリは表彰台に上っている。SLOのダミアンが入賞して賞金を持って帰ったことがやけに嬉しかった。

このとき来日した選手で今でも名前を聞く(しかもWCで)のはダミアンのみ。今後、この札幌のコンチの位置づけがどうなるか、選手がどう利用していくかはわからないが、ダミアンは希なケースではと今でも思う...。


1999年:ヴィルフリート・エバーハルター(AUT)、オリ・ハッポネン(FIN)、ライフ・フライ(GER)、キル-エリック・サグバッケン(NOR)、リコ・パーパン(SUI)。選手、コーチのまとまりがとてもよく、仲良く過ごす。

この年のコンチは12日-18日で20日にはWC組がやってきた。エバーハルター、フライ、パーパンは残ってWCも飛んだ。NORのサグバッケンは成績によっては残れることになっていたらしく、最後まで国に電話で懇願していたが残念ながら許可は下りなかった。ドイツのフライは引退したらしい。WCでも1A枠で飛んでいたが、ついにナショナルチーム入りには至らなかった。ジャンプを辞めて何になるのかは?だけれど、彼は英語も上手で、とてもよく話すコで、ジャンパーにしておくのはもったいない、というか、もっと向いていることが絶対あるはずだ。


2000年:トーマス・ヘール、ベルンハート・メッツラー(AUT)、ロニー・ホルンシュー(GER)、フローデ・ホーレ(NOR)、ロベルト・クランイエッツ(SLO)、そして韓国からカン・チルク、キム・ヒョンキ、チェ・ヨンジク、チェ・ホンチルの4人。

AUTのヘールは今ではあまり名前を聞かないが、この年のプラニッツァのフライングで世界記録を出す。すでに引退したGERのホルンシューはAチームにいたこともある選手。このときは調子を落としてコンチで飛んでいた。AUTのコーチはマルティン・コッホのお父さんのフリッツ・コッホさんで、GERのペーター・ローヴァインコーチは現・ドイツ複合ジャンプコーチ。
SLOのクランイエッツはこのころはまったく目立たなかった。今ではご存じの通りSLOで1、2を争う選手になった。裏を返すとAUTなどは選手層が厚く、Bから抜け出すだけでも大変そうだ。


2001年:スーツのルール改正で、FISのコーディネーターのスーツ計測を手伝う。
体とスーツの両方を計って差を出すのだが、スーツの遊びが多すぎると失格となる。体をなるべく最大の状態(?)で計る。つまり腕ならば思いっきり力を入れた状態で、胸なら思いっきり息を吸って、というふうに。普通の状態で少しでも余裕を持たせるためだ。FISも鬼ではない。試合で厳しくなるのは、一度注意してるのに直さないからだろう。
この事前計測の時点で違反していた場合、大きい分を縫えばいい。OKが出たスーツにはコーディネーターがサインをするからファスナーをおろして胸を開けてみせれば一目瞭然だ。このサインを偽造するという話はさすがに聞いたことはない。もし違反したまま試合に出て、違反が発見されると(発見されないことはない。前もって違反していたスーツは必ず試合中にもう一度計られるからだ)失格になる。

01年の参加選手はラインハート・シュヴァルツェンベルガー、マルティン・コッホ、カールハインツ・ドルナー+フリッツさん(AUT)。カイ・ブラハト、クリストフ・グリルヘースル+アンディ・バウアーコーチ(GER)、アリペッカ・ニッコラコーチ+ラッシ・フースコネン(FIN)、キム・ヒョンキ、チェ・ヨンジク(KOR)。

この大会を見てアレッ?と思われた方も多かったことでしょう。いつもはWCで飛んでいるシュヴァルツェンベルガーとコッホが来ていたんですから。同姓なだけ?とか兄弟?とか言われましたが、本人です。マルティン・コッホは調子はいいと言っていた。中堅どころとも言えるライニーがここにいるのは、やはり調子がよくないからだが、2人とも成績があまり上がっていなかったこと、同じ週末に行われたのがフライングで、それに出たいと思わなかったから、というのが札幌のコンチに参加した理由。

このころはまだまだ不安定だったマルティンに比べて、ライニーは悪いながらも2試合で6位入賞。まとめる力はまだライニーの方があるのかなと思う。2人はこのあとソルトレイクへ行ってAチームと合流し、WCのときにもう一度札幌に戻って来るという。

前年もコーチとしてコンチで来札しているフリッツ・コッホさんは、マルティン・コッホのお父さん。顔はそれほど似ていない。言われないとわからないくらい。というか言われて、そういえば名字同じだもんね、って感じなのだが、後ろ姿とか、歩き方とか、しゃべり方がとてもよく似てる。18歳ぐらいの男の子って父親に対してコンプレックスとかないのでしょうかね? ましてや似たような競技者で。スロベニア、フランスとコーチを歴任していたハインツ・コッホさんとフリッツ・コッホさんは兄弟、つまりハインツさんはマルティンのおじさんです。

ドイツのカイ・ブラハトはその時点でコンチの総合トップだった。本人はインタビューでこの順位について、暖冬でフルに試合が行われていないこと-つまり力が平均化されていない-を挙げ、逃げ切れるとは思っていないと言っていた。もう1人、ドイツから参加のクリストフ・グリルヘースルは改善すべき点として、アンドレアス・バウアーコーチに「どこも、少しずつ、すべて」つまり、もし誉めるとしたら荒削りとしか言いようがないと言われていたけれど、シーズンが終わってみればコンチ総合2位という輝かしい成績だった。ちなみに総合優勝はFINのアクセリ・ラユネン(複合のサンパ・ラユネンの弟さん)、カイは4位でした。

なぜかはわからないけれどドイツの2人は札幌では不振だった。現役時代とても人気のあったアンディ・バウアーがコーチとして来札するのは初めて。いやぁ、今でもなかなかカッコイイですよ。ヘスコーチの次は彼がヘッドになるかも...。

この年は選手の顔ぶれがいつもよりにぎやかなのに加え、ちょっとしたハプニングもあった。FINのフースコネンの荷物がフランクフルトで積み残され、スキーもスーツもなく、しばらくは練習できなかったのだ。

選手は荷物を3つ持ってくることが多い。スキーが入った長くて大きなバッグ、スーツやヘルメットを入れたスポーツバック、そして着替えを入れたスーツケースの3つ。

宮の森の試合の日、まだスキーが届かず、コッホの予備のスキーを借りる。ラッシは背が高く(187cm)自分のより4cmも短く、メーカーもちがったが入賞。明日入賞しなかったら、スキーを変えたほうがいいんじゃないかと言われる。翌日はスキーが届き、自分の板で飛ぶが入賞ならず。最後の試合、1本目が終わってトップ。「さすが自分のスキー」と言うとうれしそうにうなずく。この試合はトヨタの車もかかっていた。1位は守れなかったラッシですが入賞は果たす。


2002年:FINのヤンネ・ハッポネンが優勝。まったく、全部外国人選手に持ってかれてど〜すんの?!と思ったけれど、彼自身はいいコそうなので、彼が勝ったことは全然いいんですけどね。あの英語のたどたどしい、いえ、初々しい優勝インタビューは記憶に新しい? STV杯はFIN語でしたが...。アメリカ勢は札幌で五輪の予選を。その後のジュニアWMで飛んでいたUSAのクリント・ジョーンズを見て、「あのコそんなに若いとは思わなかった」というスタッフの声。確かに見かけも落ち着いているし、しっかりしてそうですね、彼。
ペッカ・サルミネン(FIN)
2003年:外国人選手は5人。クリスマスにサンモリッツのCOCで優勝しているバスティアン・カルテンボック(AUT)、札幌のCOCは2度目のフェルディナンド・バーダー(GER)、去年はWCに来ていたペッカ・サルミネン(FIN)とモルテン・ソーレム(NOR)、ウロス・ペテルカ(SLO)はプリモジュ・ペテルカの弟さん。リベレッツとザコパネのWCに参戦しないで日本で調整する日本のAチームが参戦するというから、さすがに、今回、外国人選手に優勝を持って行かれることはないでしょう。

3連戦の初戦、宮の森でのオリンピック記念大会兼コンチネンタルカップ。ヨーロッパからの荷物が遅れたこともあって、日本のWC組は出場を見合わせた。朝から平地でも風の強い日だった。風に当たりはずれはあった。優勝はNORのモルテン・ソーレム、2位はGERのフェルディナンド・バーダー。バーダーは最長不倒賞(96.5m)も取った。3位に入ったのは雪印杯で優勝した上野真吾。

サルミネンは1本目は風もジャンプもよくなかった。2本目は風をもらって91.0m。12位から5位まで上がった。AUTのカルテンボックはビショッフスホーフェンの大会に出ていたので、みんなよりも1日遅れの到着となり、まだ時差ボケが残っているようだった。1本目はまったく風がなかった。2本目、風は良さそうに見えたが、ダメだった。ペテルカは風邪をひいているとかでやや元気がなかった。「明日はどうなると思う?」と外国チームのコーチたちに聞いてみた。「1位ミヤヒラ、2位カサイ。フナ〜キ、ハラ〜ダは問題あるね」とのことだった。

1. モルテン・ソレーム 93.5+94.0m/245.0点
2. フェルディナンド・バーダー 96.5+91.0m/241.0点
3. 上野真吾 89.5+94.5m/235.0点
5.ペッカ・サルミネン 86.5+91.0m/222.5点
14.バスティアン・カルテンボック 84.0+86.0m/208.0点
20.ウロス・ペテルカ 84.5+78.5m/190.5点

その予想が当たった。と言うか、誰が考えても当然なのだけど...。
大倉の1戦目は宮平の圧勝だった。

1.宮平秀治 138.0+139.0m/296.6点
2.ペッカ・サルミネン 125.5+126.5m/254.1点
3.東輝 125.0+113.5m/227.3点
7.フェルディナンド・バーダー 112.0+110.5m/194.0点
8.モルテン・ソーレム 104.0+110.5m/179.6点
11.バスティアン・カルテンボック 107.5+103.0m/169.4点
41.ウロス・ペテルカ 86.5m/47.2点

大倉第2戦目もミヤジの強さに揺るぎはなかった。じゃなきゃ困るよね。この日もペッカが2位に入る。
1.宮平秀治 139.5+129.0m/280.8点
2.ペッカ・サルミネン 125.0+130.0m/259.5点
3.葛西紀明 128.0+122.0m/252.0点
6.バスティアン・カルテンボック 126.0+121.0m/242.6点
11.フェルディナンド・バーダー 103.5+111.5m/180.0点
22.モルテン・ソレーム 100.0+103.0m/153.4点
26.ウロス・ペテルカ 98.0+91.5m/128.1点